昭和40年07月27日 朝の御理解



 お道の上にも、一般にもそんな言葉が使われます。根性でいこうと、根性がしっかりしておかなければいけないというわけなんですね。昨夜土居の共励会の帰りに北野の福島さんが寄られましてから、後に残ってから話しておられる事の中に、先生昨日は不思議な人がやってまいりましたち。もう八十いくつとかという、そのはちはじょうがしま、なんとかというのがあるでしょう、八丁島ですかの人だった。
 お店ですからお店の中に入って来てから、福島さんがお店をやっておられてそのおじいさんがやって見えてから、「ちょっとそっとの借金どんあったっちゃその、くよくよする事いらんばのち」ってな話から「本当に今日神様ははこのお爺さんをつこうて私に元気を付けて下さるなあ」と思うたとこう言われますね。私はそのそのなんですか、そこ村にですね養子に来てからですね、あそこが丁度田が7反か8反かあったっち。
 それを来てからそれを、またたくまにつこうたち。家も屋敷もそれから田畑も。けれどもそれから、もうその3倍か4倍にするのにですね、二年とかからなかったと。またたくまに取り返したというわけなんですね。「私はもう毎朝、朝はようお天道様があがりなさる前に起きるのが、何十年間続いたと。そしてその朝風呂に入ると。必ず朝風呂に入ると。前の晩からそのねあの(?)それですから、もう朝は丁度いいかげんにまいっておる。そして朝風呂に入っといてから朝草を切りに行く。
 帰って来てから又入る。そしていっぱいやるのが楽しみ」だと。それが、何十年繰り返され続けられておるわけなんですね。もう今は、結構な隠居の身分だと言うわけなんでしょう。そんな話を聞いておってから成る程、あのこのお爺さんは、しっかり根性がしっかりした人だと思うですね。ね。ところが、信心でいうその根性というのは、ただそんなものだけではいけない。
 神様のご恩徳というか、ね、神様の無限の働きというか、神様の御恩徳を分からせてもらい、天地の無限の御恩徳を分からせてもらい、それにお答えするという私は根性でなからなきゃあいけんと思う。ただおかげを頂いて、神様の有難さが分かったと、言う様な事ではだめ。ね。天地の大恩が分からなければいけない。いうなら天の恩を知りて地の恩を知らぬ事とこういう、ご神戒にありますけれどもですおかげを受ける、天の恩を知る。いわゆる天は恵まれるもの、天はこの下さるもの、ね、
 そこで天の恩は分かるんですけれども、地の恩はその位な事では分からん。おかげ頂いた様なこっちゃ分からん。ね。昨夜夜の御祈念を仕えるちょっと前でした。久留米の岡崎さんがお礼に出て見えてこられ、子供を連れてから見えたんです。とてもよい奥さんを持っておられますし、子供さんが今満二つ位でしょうか、所が最近は一つの何ちいうですか、倦怠期とでもいうでしょうかどうも私の言う事をいっちょん聞かん。
 「先生聞いてくださいち。今日もお客さんがまあ、お得意さんが見えたち。だからお前すまんけれども、冷たかもんなっと買ってきてくれんかち、それがもうああた買いに行こうとせんとでんすけん。こげな奴はおりませんち」言うてから腹かきなさいますですもん。もうこうでなからなきゃあならんちいうてからもろうたのですよ。それで私あのこまかとがここでお名前を聞くと伸江さんと娘さん「伸江ちゃんはどげな風か、パパとママどっちがすいとるね」ち言うたら「パパもすいとるママもすいとる」て。
 一様なんです。子供から見たら。ね。ただお父さんだけが、子供は可愛いけれども、こんどは家内の方がちょっと好かんごとなっていきよる。ね。私はその子供が言うようにですね、パパも好きであり、ママも好きであるというようにです、私共が天の御恩も分からせて頂いたら、地の御恩徳というものを分からせて頂くという信心にならなければ今日私の言う根性は生まれてこないです。
 私あの御造営が始まります、前後でしたでしょうか、そこの控えの方にお茶でも頂かせてもろうてから、それこそその手の平の様なお庭じゃありますけれども、本当に神ながらに出来た庭であると。この石の配置といい、・・・?水もしっかり掘らせて頂いてから、ね、本当に有難い事ではあると。もう本当に今の椛目の場合です御造営なんてんいらんとこう思う。これは私の考え。これで結構間に合っておるのだと。
 ただ大祭の時に少し手狭を少し感じるだけの事。駐車場も出来たしもう手を入れるだけの所は入れてから、部屋もきれいになったし、ね、大祭の時に少しその不自由ですけれども、もうちっとこれがお参りでも多うなったら御大祭二日ぐらい仕えて、家はもうなんのこれで不足はない。不足はない不平はない。ね。京都の(りゅうあん寺)という有名なあの石庭がある所のお寺さんが御座いますね、禅寺です。
 あちらにまいりますと、手洗いに参りますところの、手洗いの石の水に石にですね、四角い1尺真四角ぐらいなあの、ほうに彫ってあるですね。丸い石。そしてその真ん中の四角いていうところが口と言う字になっておる。その四方にですそれがどこからみても、我ただ、ただ我、足るをしると言う様に、読めるようにかいてある。中々素晴らしいある意味合いでは境地だと思うですね。
 どんな中にありましても、自分のこれで十分だ満足だ、これで足りているんだという事です。自分はただ、足りておるという事だけしかしらんと。皆さんどうでしょうか、仏教的なひとつの定款というですかね、あきらめというですか、ね、的なところをだんだん極めていったらそういう事になるかもしれませんですね。昨日の御理解ではないですけれども、清貧に甘んじるという、貧乏をしておってもそれだけの事足りておるのだと、それで有難いのだというわけなんです。いうなら。
 ところが、金光様の御信心はそうじゃないのです。日に日に生きるが信心なのだと言う事。ね。もうこれだけのおかげを頂いておるのだから、もうこれで、何も不足不平があろうかと、私そんな事をふとこう思うた。ね。そしたら神様からそん時お知らせを頂いた。お前はこれでいわば、その、我ただ足る知るといったような、気持ちに近いわけなんですね、少し違います。
 私の場合はですね、これが信者が、二倍か三倍になっていったらそん時始めて、あんまり人にはご迷惑かけんですむ、ね、教会も裕福になる。ね、お金もたまった、信者の誰かれにどうこういわんでもです、ね、結構例えば、なら5千万円なら、一億円の財を投じてでも、お広前が出来るような、おかげ頂いてからでもいいじゃないかと言った様な、思いかたなんです。ね。
 今の椛目に、ね、いうならその時の、計画の場合はまあ、三分の一ぐらいだったけれども、現在から言うと、お金だけでも丁度、4分の一足らずしかない。ね。いわば4分の3だけはです、どっからか持ってこなければならん。いわば信者に無理をいわなければならん。ね。そういうような事よりもです、現在のままの方が良かろうごたるというのが、人間の思い。考え方。
 けれども、神様はです私にその、根性をいや私ではない、椛目に御神縁を頂いておる全部の人たちにです、本当の意味での根性を分からせようとしておられるということである。ね。お前が、これくらいのことでもう甘んじておる、これで満足しておるならそれでよいのだけれども、ね、沢山な難儀な氏子が、取り次ぎ助けられる事の為ではです、今の椛目のままではいけんと。
 助かりの場というものをです、今の椛目では出来んのだと。まず受け物を先に作れと。今の椛目ならこれでよいかもしれんけれども、これだけでは出来んのだと。神様の願いというのは、世の中の難儀な氏子が取り次ぎ助けられる。しかも、限りなく沢山の人が助けられる為にどうでもやはり、ここに一根性出させてもろうてから、ご造営のおかげを頂かねばならんというような意味の事を下さった。
 そこに私の心も成程そうだと感じさせてもろうた。ね。天の恩を知りて地の恩をしらぬことと。天は下さるもの、地から湧くもの。天から降ってくるように頂くところのおかげと、地から、湧いてくるようなおかげが一つになって、本当のおかげというものが頂けれる。ある人がいうた。本当の極楽というのは地獄の釜の底を踏み抜いた向こうにしか極楽はないと。ね。例えば私が一根性を出した。
 そして現在までの所まで、繁盛のおかげを頂いた。これで甘んじておったら夕べの福島さんのお話じゃないですけれども、ね、そのお爺さんのお話ではないですけれども、結局その程度のことで終わるのではなかろうかと思う。無尽蔵限りない天地のご恩徳の中に、ね、生かされておるという喜びを、私あのその福島さんのお話を聞かせて頂いてですね、本当にやっぱ信心がなくても根性があれば、儲けさせも出来ると。いわばもう晩年です、楽隠居も出来る。自分の思う勝手のことが出来ると。
 そこまではおかげが頂けたいなとこう思うて頂いたら、そこで心眼に頂くとがですたい、ね、丁度土間に少しばかり水がところどころたまっておるようなところですもんね、もうそこば這い回っておる姿を頂いたですがね。もうこれでなんか地獄じゃなかろうかといったような感じですよ。もうなんか、土間にです、そこそこ水が溜まっておるような、ちいった水の、梅雨のもう時の庭のような感じです。
 土間のような感じ、そこを這い回っておるような感じです。私そう思うて御祈念させてもらいよったらそこでですね、ある年寄りの人がそこの、もう、どんどん、土間を這い回ってですね、体がこう、汚れて、そこでです、ゴロットごろ寝をする土間でごろ寝をするところを頂いた。これでは本当のお蔭ではないなと。まあいうならばおじいさんがおかげを受けてるというても、その程度のことじゃなかろうかと思うですね。
 神様からご覧になったら。ただ根性で財産が一財産出来たと、楽隠居の身分になれたというだけでは、本当のものじゃないと言う事。ね。私はですね、地の恩が分からせて頂いたらです、いわばその、たたきのうえにごま寝するようなものではなくて、それこそ、夏は涼しい冬は暖かい、ね、そういう雰囲気の中に、明け暮れ出来るようなおかげを頂かれると私は思うです。
 一生懸命働いて金が出来る。それだけでそんなものです。天の恩と地の恩を本当に分からせてもらう。ね。心から湧いてくるところの喜び、そこから生まれてくるところのおかげ、神様が下さる所の天恵、天のお恵み。それが一つにならなければ私はおかげにならんと。その天地のご恩徳をいよいよ私共が深く広く分からせてもろうて、の、根性です。いわゆる天地の親神様のこちらの信心如何によっては限りなくおかげを下さることのできる神様であるということを確信させてもらう信心。
 いうならばですさあなら御造営、御造営とこういうておる、その御造営の中からのその為にです自分の持っておる財産を少しばかり削ってから、お供えをするというのではなくてです、勿論それも大事、けれども御造営の事に一心にならせて頂いて、おかげを頂かせてもろうたらです、限りなく今までとは違った雰囲気がです、お店ならお店の上に現れて、限りなくおかげが頂けれる様な、私はおかげでなければならんと思う。ね。
 それとこれとが一つに成る様な、私はお蔭でなからなければならんと思う。そう言う様な私は信心をです、根性がなからなければそういうふうにお思う事さえ出来ん。私共はただ根性でやり抜こうというのは、今私が例をもって申しましたそのお爺さんの様な根性だけではです、私は本当の極楽には行けんのだと思う。極楽的なお陰にはならんと思う。ね。天地の大恩を分からせてもろうて、ね。
 いうなら地獄の釜のいわば、踏み抜いた向こうに極楽があると言う様なです、ね、信心が一応はできなければ、私は本当の極楽の味わいというのは分からんのじゃなかろうかという風に思う。為には私がいう信心での根性。天地のご恩徳が本当に分からせて頂いてからの根性、神様の働きをいよいよ確信してからのいわば根性。ね。そこにはです、一時でも、いわば日に日に生きるが信心なりであって。
 停滞しておるとか止まっておるとか知らない信心。ただ、自分の少しばかりのおかげにです、甘んじてです。それに腰掛けておるような信心ではない。限りなくおかげの頂けていく信心、それは、財産、健康といったようなものではない。そういう、一生懸命の願いがです、沢山な難儀な氏子の取次ぎ助けられていくという事につながるような信心。そういう意味での一つ根性を作っていかなければならないと思います。
   おかげを頂かなければなりません。